第20回秋季講演会 開催終了のお知らせ
10月13日(月祝)に行われました「第20回秋季講演会」 は、皆様のおかげを持ちまして盛況のうちに無事終了いたしました。
ご参加いただきました皆様へ、改めて御礼申し上げます。
今後とも、引き続き当財団の活動にご支援いただけますようお願い申し上げます。

来年の大河ドラマをより深く味わうための最大の鍵は、「秀吉の天下」だけでなく、その背後で政治と文化の基盤を築いた豊臣秀長、そして彼を支えた名代官小堀新介正次(こぼりしんすけまさつぐ)、さらにその息子で後に茶の湯・作庭・建築の世界で大成する小堀遠州(こぼりえんしゅう)の存在を知ることにある――。今回の講演で歴史研究家・太田先生が語った内容は、まさにその「見えにくい歴史の本質」を見事に浮かび上がらせるものであった。
正次はもともと浅井氏家臣の家に生まれ、後に豊臣秀長に仕えることになる。彼は戦場で槍を振るう武将ではなく、領国統治の実務を担う「代官頭」として活躍した人物だ。但馬・播磨・紀州など広大な領地で検地を行い、年貢制度を整え、寺社との交渉や農民同士の争いの裁定など、多岐にわたる行政を担った。特に興福寺とのやり取りでは、誤りがあってもすぐに処罰せず再提出を促す寛容な姿勢を見せ、「仏のような人物」と記録されている。こうした姿勢は、強権的な藤堂高虎や松永久秀とは対照的であり、「知と交渉の人」として秀長から絶大な信頼を寄せられていた。
また、姫路や播磨の政務を託されたほか、十津川や紀州では正次の指揮によって検地が進められた。秀長が合戦や政務で不在の間も、清水寺への寄進状など正次名義の文書が多数残っており、彼が実質的に豊臣政権の領国経営を担っていたことがわかる。天正13年には紀州全域に対して検地実施の命令が出され、正次は「検地総責任者」として名を連ねている。武力で一揆鎮圧を担った藤堂高虎に対し、正次はその後方で折衝と民政を担うという明確な役割分担があった。

こうした行政手腕は、息子・小堀遠州にも大きな影響を与えた。遠州は幼少期から文化的な刺激と政治的な空気の中で育つ。天正16年(1588)、10歳の遠州は郡山城内で、千利休が秀長に茶の稽古をつける姿を障子越しに見つめたと記録されている。利休と遠州の初対面とも言えるこの場面は、後の遠州にとって決定的な経験となった。そして翌年、11歳のときには興福寺一乗院で行われた能の催しで、秀長や利休の前で三番の能を舞ったという記録が残る。わずか11歳の少年が、戦国政権の中枢にいた大人たちの前で芸能を披露していたという事実は、遠州が早くから政治と文化の両方に接していた証でもある。
正次は関ヶ原の戦い後、備中松山城主・国奉行に任命され、鉄や紙といった重要な資源の産地を統治した。建築資材としての鉄や、文書行政に不可欠な紙を安定供給することは、近世初期の政権運営にとって極めて重要な役割だった。この職務はやがて遠州に引き継がれ、彼は幕府直轄領(天領)の代官頭としても活躍する。遠州が幕府の普請奉行や作事奉行として行政手腕を発揮できたのは、まさに父・正次から受け継いだ統治の才の賜物といえる。

また、秀長の周囲には藤堂高虎や片桐且元といった武将だけでなく、文化人も集い、建築や茶の湯、芸術に通じる多才な人物たちが共にいた。遠州はそうした環境の中で成長し、やがて作庭・建築・茶の湯といった複数の分野で才能を開花させていく。単なる茶人にとどまらず、政治と文化を結ぶ総合的な知性としての遠州像は、父の統治者としての姿と秀長政権の文化的空気の中で形づくられたのである。
今回の講演で太田先生は、史料を丹念に読み解きながら、正次と遠州という「歴史の脇役」に光を当て、豊臣政権の実像を立体的に描き出してくれた。秀長という存在がいかに重要であったか、そしてその傍らに正次のような知恵と調和の人がいたからこそ、戦乱の世が安定へと向かったのだという視点は、まさに目から鱗である。
来年の大河ドラマでは、従来の「秀吉中心史観」とは異なり、「秀長とその家臣たち」という新たな視点から物語が描かれるだろう。正次や遠州の存在を知っていれば、劇中の一つひとつの場面がまったく違って見えてくるはずだ。戦国の知と力を受け継ぎ、文化へと昇華させた親子の物語――それは、遠州という美の巨匠が生まれる土壌そのものだった。太田先生の熱のこもった講演は、そんな歴史の奥行きを教えてくれる極上の案内役となった。
