小堀遠州公は戦国時代から江戸時代の武将で、伏見奉行を務めると共に、作事奉行、大名茶人として活躍した人物です。殊に「綺麗さび」と称される独自の美意識は江戸時代を通じて多くの大名、文化人に影響を与え、現在まで継承されています。

生涯

 小堀遠州公は天正7年(1579)近江国小堀村(現滋賀県長浜市)に近江浅井氏に仕える小堀正次の子として生まれました。父正次は、後に豊臣秀吉の弟である羽柴秀長に仕え、秀長の死後は秀吉に仕えましたが、慶長5年(1600)徳川家康による上杉征伐の際には、徳川方に列し、以降徳川家家臣となりました。

 慶長9年、父正次の急死により、遠州公は遺領を継ぎ1万2460万石余りを領して備中松山城を預かります。同13年従位五位下遠江守となり、同20年及び元和元年の大阪の陣には徳川方として参陣しました。その後、元和8年近江江国奉行、同9年には伏見奉行に任じられ、伏見市街と周辺八ヶ村の徴税や治安維持、訴訟裁断、災害復旧などにあたりました。

 正保4年(1647)2月6日、伏見の地で69歳で逝去しました。戒名は孤篷庵大有宗甫、京都紫野大徳寺孤篷庵に葬られました。

作事奉行としての姿

「寛政重修諸家譜」によると、小堀遠州公は慶長11年(1606)の後陽成院の御所の造営にはじまり、同13年(1608)に駿府城、同17年(1612)に名古屋城天守の作事、同18年には禁中造営、元和3年(1617)には伏見城本丸書院、寛永元年(1624)には二条城及び行幸御殿など、城郭や御殿など普請の任にあたっています。

 小堀遠州公の建築的な才は城郭のみならず、茶室や造園建築にも発揮されていました。寛永10年には、二条城の数寄屋の作事、それ以前の寛永4年(1628)から同5年にかけては京都南禅寺の塔頭金地院の数寄屋建設に関わりました。当時金地院の住職であった金地院崇伝は、南光坊天海とともに徳川家康に重用され、寺院統制や武家諸法度の発布に尽力した人物であり、遠州公が当時の政治の中枢人物と関りがあったことがうかがえます。

 小堀遠州公が関わったとされる城郭や茶室などは現在重要文化財などに指定されているものもあり、現在でも小堀遠州公が建築で示した美意識を実際に見ることができます。

大名茶人としての姿

 小堀遠州公が茶会に参会したことを初めて知ることができるのは、文禄3年(1594)16歳の時で、奈良の松屋久政の茶会に参会しています。その頃には古田織部について茶を学び始めていたといいます。

 また、小堀遠州公は自身でも多くの茶会を開催しました。現在、年代の不明なものを含めて凡そ392会の茶会記が伝わっています。自会として初めて確認できるのは、秀吉の直臣であった慶長4年(1599)小堀遠州公21歳のときのものです。小堀遠州公の茶会に参会した人々は、京都の公家をはじめ、大名やその家臣、旗本・御家人・遠州家一族及び家臣、町人、幕府や大名御抱えの茶頭、幕府や大名御抱えの医師や役者、碁打、神社関係者、など多岐にわたり、小堀遠州公の人脈の広さをうかがうことができます。

 寛永13年には三代将軍家光に品川林中に御殿と茶亭を建築することを命じられ、完成した茶室で将軍をもてなしています。将軍家光は小堀遠州公のもてなしに満足し、清拙の掛け軸を遠州に下賜したといいます。同16年には、徳川家御位牌所である品川東海寺において、小堀遠州公が庭園の作事を任されました。小堀遠州公は自然地形を利用した涌泉を引いた庭園を造り将軍家光を喜ばせたといい、茶人及び作事方として将軍の信任も厚かったことがうかがえます。

 また、小堀遠州公が茶人として大きな影響を及ぼしたことは、小堀遠州の所蔵品が「遠州蔵帳」として格付けされていることからもうかがうことができます。小堀遠州公は在野の無名の茶入から見どころのあるものを見出したといい、蓋や仕覆などを整えたものが後に「中興名物」として珍重され、現在に至ります。

 このように大名茶人としての小堀遠州公は様々な身分の人物と交流を持ち、江戸時代のみならず現在の茶の湯の道に大きな影響を与えました。

 当財団では、今後も小堀遠州公に関する資料の収集や調査研究を通し、小堀遠州公の多岐にわたる業績を顕彰していきたいと考えています。

参考文献
・小堀宗慶「小堀遠州茶会記集成」(主婦の友社、1996)
・森蘊「小堀遠州」(吉川弘文館、2003)
・熊倉功「小堀遠州茶友録」(中央公論新社、2010)
・藤田垣春「小堀遠江守正一発給文書の研究」(東京堂出版、2012)
・八尾嘉男「小堀遠州と武家の茶湯」(「佛教大学大学院紀要」第35号、2007)